2016年01月05日

「人種戦争」 アジア人が、白人を「劣等で、従属すみなべき人間」と見傲すようになった

「人種戦争」 白人は最低というのが、新たな秩序だった。アジア人が、
白人を「劣等で、従属すみなべき人間」と見傲すようになった。



◆人種戦争――レイス・ウォー  ジェラルド・ホーン (著)

香港で破られた「白人の優越」

.香港は、東洋の真珠として知られていた。広さは四二三平方キロ。商業の中心地である香港島と、九龍、新界、周辺の島々からなり、香港島にある大英帝国支配の象徴であるビクトリア・ピークは標高約四〇〇メートル、頂上から、湾や、周囲の島々を一望することができる。

イギリスが香港に触手を伸ばしたのは、アヘン戦争の後の一八四二年だった。一八九八年に、新界を獲得し、守りを固めた。日本軍進攻前の香港の人口は一七〇万人で、一万四〇〇〇人の白人と、七五〇〇人のインド人が住んでいた。裕福だったのは白人で、中国人はアメリカニグロ南部の黒人同様に、人種差別のもとで、絶望的な窮状を強いられていた。

ところが、日本軍が一九四一年十二月に進攻すると、「英領支那」の白人支配層を組み伏せてしまった。

香港から数百マイル南にあるシンガポールは、大英帝国の最も戦略的に重要な前哨地とされていたが、香港はそれ以上の存在価値を、中国市場への入口としての価値を持っているとみられた。イギリスは何十億というマッチや、靴下を売り込めると、夢を描いていた。

香港は同時に、全世界の諜報員が暗躍する、スパイ天国だった。民主主義などにまったく構わなかったのも、魅力だった。中国人はイギリスの支配に、まったく抵抗しなかった。

香港は、貿易の要だった。今日でも人口わずか七〇〇万人の香港が、一〇〇〇億ドルもの外貨を保有している。ブラジル、トルコ、ロシア、アフリカ、ギリシャの人口を合わせると、香港の五〇倍にもなるが、外貨保有額では香港に及ばない〔本書の執筆時点.二〇〇三年〕。

『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』誌によれば、香港は今では「地上で最も裕福な地の一つ」だが、戦前は、「世界で貧富の格差が最もひらいた」ところだった。また、経済的にも、社会的にも、安定していなかった。

イギリスが香港を領有してからおよそ一世紀が経過した一九四一年十二月に、日本軍が香港を占領し、まるで聖書の「黙示録の予言」と、「最後の審判」が同時に起こったかのように、大多数の住民によって熱狂的に迎えられた背景には、人種差別があった。

ある評論家は、「イギリスにとって、軍事的な敗北より、心理的な打撃のほうが大きかった」と、語った。特にシンガポールの陥落は、ジンギスカンの騎馬隊が七世紀以上も前に、ウィーンの城門まで迫った時以来、「アジア人が、大英帝国に与えた最大の衝撃」だった。「白人の優越」という城塞が、あっけなく破られたのだつた。

それは、戦いに敗れたというだけではなかった。白人が有色人種との戦闘で敗北したという事実は、白人に天から付与されたと信じられてきた続治権や、精神の優越までがずたずたにされ、失われたことを意味した。その喪失感は、言いようのないものだった。

イアン・モリソンは、戦争が激しくなると、「極東で白人が持っていた特権は、もはや過去みちのものとなり、元に還ることはない。白人は自らの行く途を、人種とか、肌の色とか、海軍力よへの信仰に拠らずに、各人の能カと資質によって選択せねばならない」と、説いた。

白人は自分たちが有色人種に対して犯してきた罪によって、罰せられる時が到来したことにおび震え上がっただけでなく、新しい人種秩序の中で、最下層に落とされるのではないか、と怯えた。

日本人の白人に対する残虐行為

日本軍は「白人の優越」によって虐げられた人々の感情を、巧みに利用した。日本軍の収容所では、日本人の管理下で働いていた者の「過半数」が、朝鮮人と台湾人だった。彼らの地位が最高で、白人は最低というのが、新たな秩序だった。アジア人が、白人を「劣等で、従属すみなべき人間」と見傲すようになった。

アメリカにとって日本人が犯した最大の罪は、アジア主義の旗を掲げて、有色民族に誇りをいだかせることによって、白人の誇りを貶めたことだった。

極東国際軍事裁判は、なによりも日本が白人上位の秩序によって安定していた、世界の現状を壊した「騎慢な民族主義」を大罪として、裁いた。

事実、日本は白人の既得権益を壊して、白人から見ておぞましい成功を収めた。

パトリック.ハーディーは、一九二八年にボルネオで生まれたユーラシア人(白人とアジア人の混血児)だった。兄弟と、ビーチ・ロードにあった日本軍の登録所に行くと「父はイギリス人か」と尋ねられた。テーブルが二つ置かれ、そうであったら一方のテーブルに、父がユーラシア人なら、もう一つのテーブルにつかされた。

白人を父に持つ者は、収容された。ハーディーは収容されることなく、日本軍の運転手となった。

イギリス統治下で特権を与えられていた白人は、日本軍の進攻によって立場が逆転し、戦後になっても有色人が胸を張って闇歩する状況が続いた。

ジョン.ダワーは「今日のアメリカ人に第二次世界大戦中に、どのように人種差別から残虐行為が行なわれたかと尋ねれば、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺を挙げよう。しかし、戦時中に、アメリカ人に対して最もひどい『仕打ち』を働いたのは、ドイツではなく、日本だった。『人種問題』は、アジアで起こった。日本の侵略は、『白人の優越』を転覆して、白人にとってこの世の終わりのような惨状を世界にもたらした」と、書いている。太平洋戦争はイギリス人はもとより、白人に大きな衝撃を与えた。

イギリス軍とニュージーランドの先住民の熾烈な戦いを研究した、学者のジェームズ・ベリチは、「日本軍の『白人への攻撃』が、あまりにもすさまじかったので、イギリス人はまるで悪夢から目覚めた子どもと同じように、何も起こらなかったのだと、自分に言いきかせて、全てを忘れようとした」と、記した。

アメリカの高名なジャーナリストのセオドア・ホワイトは一九七五年になって、戦時中の体験にっいて語った。「アジアで何年も取材したが、アジア人の白人に対する憎悪にっいては、まったく書くことができなかった。アジア人は誰もが、我々白人全員を嫌悪していた。それは歴史をみれば、当然のことだろう」と、アジア人が耐えてきた植民地主義のもとで行なわれた、人種差別の歴史に言及した。

ホワイトはアメリカの友だった蒋介石でさえ、「本心では、白人を嫌っていた。アメリカのなかでは黒人だけが、白人によってアジア人がどれほど苦しめられていたか、理解できるだろう」と、話している。戦前から戦中にかけ、日本はアジア人の白人への敵愾心を利用した。

イギリスは、日本軍による白人に対する「残虐行為」が明らかになると、「ほとんどの中国人が、そのことに関心を示さない」「中国人は日本軍がそのような行為に及んだのは、白人をはずかしひそ辱めて、アジアから追放するためだと思って、むしろ密かに喜んでいる」という、報告を受けていた。

白人側が使った人種差別の宣伝とは

ところが、事実を捻じ曲げて、「日本軍がアジア人に対して、ありとあらゆる『残虐行為』プロパガンダに及んでいる」という、宣伝が行なわれた。日本軍が白人に対して「残虐行為」を行なっていると報告すると、かえって「アジア人のために戦う日本」のイメージを広めかねなかったからだった。

白人と有色人種が平等だという戦後になってからの人種政策や「白人の優越」が否定されることは、日本軍の進攻によってすでに戦時中から明らかになっていた。

アメリカはイギリスよりも、人種問題に敏感だった。先住民を虐殺し、黒人を奴隷にすることによって建国したからだった。

一九四二年半ばに、アメリカの心理戦争合同委員会は、イギリスに「太平洋戦争を、『大東亜戦争』にすり替える日本の宣伝を阻止することが、重要だ」との極秘の提案書を送った。

「アメリカの白人社会に対して、有色人種に対する激しい人種差別を和らげる宣伝を行なうべきである。そうした宣伝は、人種偏見に直接、言及してはならないが、有色人種のよい面を伝えることで、間接的に可能だ」と提言し、「『こびと』『黄色い』『細目の』『原住民』といった表現を避ける」ことや、「アメリカの黒人活動家が、白人を非難する日本の宣伝を受け売りしていること」にも言及した。

戦争が終結に近づくにつれて、後に「ポリティカリー・コレクト」という表現が用いられるようになった戦後の人種への対応が、形成されようとしていた。過去に人種差別を蒙った人々ジム・クロウについて、むしろ国際的な場で「黒人のリーダー」を前面に出すことで、黒人蔑視に対する批判を避けようとした。

オーストラリアでは「人種の優越」に言及することをやめるように、極秘の指令がただくさぴ出された。唯一つ許されたのは、日独間に楔を打ち込むために、ドイツの人種政策を利用することだった。ドイツはかつて「ドイツ民族は全ての民族の中で最も優れ、日本人は奴隷に適している」と、主張していた。また、「インドシナでは黄色人(日本人)がのさばって、白人より優れていることを誇示していた。このために、戦後もベトナムがフランスの植民地に復帰することは困難だ」とする報告もあった。白豪政策を取っていたオーストラリアは、かっての人種差別政策を、表面上、撤廃した。

アメリカもイギリスも、日本の「人種戦争」に、どのように対応すべきか戸惑った。日本の人種政策と一線を画さなければならなかったが、同時に自ら実行してきた人種差別を緩和しなければならなかった。

イギリスは大西洋憲章によって民主主義を高揚したかたわら、アジアやアフリカの植民地では、民主主義を否定していた。特にイギリスは戦時中に起こった人種の地位の大転換に、当惑した。ひとつの対応法は、沈黙を守ることだった。中東でもパレスチナ間題に直面したが、肌の色や人種のような問題に、できるだけ触れないようにした。

結局、大英帝国に対する人種戦争の衝撃が白日の下に晒され、沈黙を続けることができなくなった。さらに事態を複雑にしたのは、第二次世界大戦前に人種差別主義がもたらした罪が、ほとんど問題とされなかったことだった。帝国主義を非難していた評論家さえ、人種差別には批判の眼を向けなかった。

当時は、どのようなイギリス人も、植民地の人々の状況にほとんど関心を抱かなかった。教科書も植民地の状況については言及していなかった。イギリスの下院でも、戦後しぱらく論じられなかった。日本が香港で白人収容者に「残酷な人種差別」を行なったのに、その悲惨な体験は思い出すこと忌まわしいのか、あまりにも苦痛を伴うのか、ほとんど伝わってこなかった。

日本は自衛のために戦った

一八五三年に、マシュー・C・ペリー提督が浦賀にやってきた。日本の二世紀以上に及ぶ鎖国が、破られた。これは、衝撃的な出来事だった。ペリーは上陸すると、背が高い屈強な黒人奴隷を二人伴って行進した。歴史的な舞台に、黒人に一役を担わせた。日本人は蒸気船にも驚いたが、久しぶりに見た黒人に、興味津々だった。

なぜ、ペリーが黒人を連れていたのか。理由はわからない。日本人を黒人のように奴隷にし得ることを、示したかったのかもしれない。理由が何であれ、この黒船襲来が、人類史上に輝く偉業である「明治維新」をもたらし、「白人の優越」を断固拒否する、アジア人の先進国家が建設される道筋をひらいた。(P24〜P31)









posted by 明智光秀 at 19:15| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月07日

「明智光秀」は謀反人であったのか?

下剋上が罷り通る戦国時代に措いて何故明智光秀だけが謀反人の汚名を着せられるのは何故かってお考えになったお方は居られるでしょうか?

そもそも明智光秀ってどう言う人物であり主君織田信長との関係はどうであったか、主君家来と言えどもお互いがスパイを放っていた時代に何故本能寺の変が成功したのかって不可思議な話ではないでしょうかねぇ〜?。

本能寺の変の原因に附いては下記の様な諸説色々言われて居ります。
1 徳川家康接待に措いて織田信長からの叱責を恨んでの怨念説。
2 天下取りを狙っての犯行説。
3 黒幕に躍らせての浅はかな犯行説。
その他ありますがこれらは皆後付の嘘話=プロパガンダなのであるのです。

小生の考えを歴史的事実を持って述べて行きたく思います。




史実によれば明智光秀は清和源氏の流れを受け継いだ土岐氏(現在の岐阜県)の出であることだけは分かって居りますが、越後(現在の福井県)の朝倉家に身を寄せるまでの記録が全く残っていません、おそらく全国を放浪生活をして色々な知識を得たと思われます。

明智光秀は武人としても有能であるばかりか大変教養人(和歌、茶の湯に通じた)であったのです、朝倉家で後に織田信長の家来となるきっかけとなる細川藤孝と昵懇の関係とると共に不遇の身であった15代将軍足利義昭と共に京の都へ上りそこで天下取りを目指していた織田信長の家来として仕える事になったのであります。(利害関係が一致)

織田信長は朝廷(御皇室)との交渉役に明智光秀を抜擢し両者の使従菅家は大変良好であり当時堕落し酒池肉林の生活をして世間を困らせていた宗教界の元凶比叡山延暦寺焼き討ちでは功績を上げ豊臣秀吉よりも早く当時の要所坂本城を与えられ城持ち大名になったのであります。

その明智光秀が何故織田信長を撃ったのか?




【天下布武】の旗印の元乱世の世の中を天下統一を目指す織田信長は稀代の戦略家であり今までの戦の形を一変させた功績は賞賛されるものと考えるのは当然である。

その織田信長から信頼された家臣としての明智光秀には恩こそ感じ謀反など起こす原因などは全く有るはずはなかったのであるが、ある事件を機に不信感を抱く様になったのであります。

当時織田信長は時の朝廷には多大な資金を献上していると共に500騎にも上る馬揃い(軍事パレード)を御所に措いて2度も行い自らの権力を見せつける裏で正親町天皇に退位を要求していたのであります、朝廷との交渉役であった明智光秀は危機感を感じ始めてどうにか織田信長を説得しようとするがその様なことを聞く相手ではないのは明らかである。

この事に関して武人であると共に教養人である光秀は細川藤孝、筒井順慶等と共に茶会と称し会談をしていたようでありますがこれと言って妙案は出ず尊王の武士は悩む日々が続くのであった。(このままでは朝廷が亡ぼされる)

さて光秀は以後どのような行動をとったのか。




光秀は出世を重ね29万石の大名として丹波の国に城を構えるのであるが信長が絢爛豪華な天守閣を持つ安土城を完成した時に朝廷をお迎えする館が余りにも低い所に建てられいた、この頃から信長は唯の石ころを我が身として拝むように家臣達に命ずる様に自らが「神」となる野望を抱くのを見益々危機感を増幅させるのでありました。

尊王の武士である光秀は大義の為信長を討つ決心をするのでありますが用心深い信長を簡単に討つことなど容易でないし悟られない様に誰にも相談せずに時を待つのであった。

その頃光秀は良く京の西方にある愛宕山へ参拝することがあった、その時に読んだ句があの有名な、『時は今 天が下知る 五月哉』である。

旧暦の6月1日深夜を決行日と決め信頼できる極一部の家臣に事の次第を告げ本能寺の変が

起こり成功したのには光秀の単独での決起と6月1日が新月であり真っ暗の夜であった事が重なったと小生は考える次第であります。


信長を本能寺で討った後の光秀は細川藤孝、筒井順慶、始め各地の反信長の武将へ自筆で協

力要請の文を書き続けるが要請に応ずる者はなかった、毛利攻めから俗に言う豊臣秀吉の大返への大返しを知り京都と大阪の境にある天王山で圧倒的な戦力を持つ秀吉と天下分け目の戦を挑むが敗れ撤退する事となる。

通説によれば光秀は京都の小栗栖で殺されたとなっておりますが実はこれにも疑念が有るのです、何故なら光秀の遺体は首を刎ねられその首は3日間田んぼに埋められた(腐乱し見分けが付かない)後に秀吉に差し出されているのです、大きな恩賞を欲しいと思うものなら絶対にその様なことはせず秀吉も認める訳がなのではないでしょうか?

この本能寺の変が元で現在の日本人も良く使っている言葉が三つあります。




1 天下分け目の天王山。
2 三日天下。
3 洞ヶ峠殿「日和見主義者」。(応援を求め筒井順慶を洞ヶ峠まで出向き懇願するも動かず、細川藤孝は出家)
  

小生は何はともあれ明智光秀の本能寺の変がなければ125代続いている御皇室が無くなり日本の国柄が変わっていたのは確かであると考える次第であります。



posted by 明智光秀 at 22:23| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月06日

特別番組 本当のことがわかる昭和史 渡部昇一 倉山満

posted by 明智光秀 at 21:16| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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